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朝日火災海上保険事件

(最高裁平成6年1月31日第二小法廷判決)

 

原審において、会社と労働組合との間でなされた退職金を減額する旨の口頭の合意の非組合員への適用について、会社と労働者との間に黙示の合意が成立するに至っていたかを何ら判断していなかったため、原判決が破棄された。

 

【事案の概要】

 

Yとその従業員で構成する労働組合は、昭和54年から昭和57年までの「本俸」引上額は退職金算定の基礎には算入しない旨口頭で合意していた。

 

その後、昭和56年に給与規程が変更され、給与体系から「本俸」が廃止され、賃金を生活保障の部分と職務遂行能力に応じた労働の対価に相当する部分に分け、それらを併せたものを「基本給」としたが、退職金算定の基礎額は「本俸」とされていた。

 

そして、昭和58年5月9日に、退職金算定の基礎額を退職時の「基本給」額とする一方で、退職金の支給率を減ずることなどを内容とする労働協約を締結するに至り、就業規則も同趣旨の変更をした。

 

非組合員であるXは、就業規則変更前の昭和58年3月31日に退職する際、退職金として、昭和54年から昭和58年までの引上額を含む「基本給」に同日当時の就業規則で定められた退職金支給率を乗じた額を請求した。

 

【判決の要旨】

 

Yは、原審の口頭弁論において、昭和54年度から昭和57年度までの賃金引上額を退職金算定の基礎には算入しないとの条件の下でYは賃金引上げに応じることを組合と合意したこと、このことはその都度Xを含むすべての従業員に周知徹底していたこと、Xも右各年度の賃金引上げは右の条件の下でされるものであることを知りつつ賃上げ後の賃金を異議をとどめることなく受領していたのみならず、支店長等の立場において、退職する部下に対し、退職金は退職時ではなく昭和53年度の本俸の月額を基礎として算定されるものである旨を説明していたことなどの事実を主張するとともに、右の事実関係の下では、Xの退職金は、昭和53年度の本俸の月額を基礎として算定されるべきである旨を主張している。

 

右のYの主張には、右事実関係の下では、当事者間の雇用契約において、昭和54年度から昭和57年度までの賃金引上額は退職金算定の基礎に算入しない旨の黙示の合意が成立するに至っていたという主張が含まれていると解すべきである。そうすると、Yと組合との間の合意の効力が非組合員であるXには及ばないとする原判決の説示だけでは、原審は、右の主張の当否について何らの判断を示していないものといわざるを得ない。したがって、原判決には、この点に関する判断遺脱の違法があるものというべきであり、右違法が、判決の結論に影響を及ぼすことは明らかである。この点の指摘を含むと解される論旨は理由があるから、原判決中Y敗訴部分は、その余の論旨について判断するまでもなく、破棄を免れない。よって、民訴法407条に従い、原判決中Y敗訴部分を破棄し、右の点について更に審理を尽くさせるため、右部分につき本件を大阪高等裁判所に差し戻す。

 

【差戻審判決の要旨】

 

遅くともXの退職時までには、XとY会社間の雇用契約において、Xの退職手当は、昭和53年度の本俸を基準額として算定し、同54年度以降の賃上額はこの基準額に加算しない旨の合意が黙示的に成立していたものと推認するのが相当というべきである。

 

そこで、右合意が就業規則である本件退職手当規程で定める基準を労働者に不利益に変更するものとして労働基準法93条に違反するかどうかの点について判断することとするが、この点は結局、同規程が退職手当の額の基準と定めている「本俸」の解釈いかんに懸かつているものというべきであるから、以下そのような観点から検討するに、昭和56年4月1日の新給与規程の施行により、Y会社の給与体系から「本俸」なるものが存在しなくなり、Xの退職時点においても同様の状態であつたことは前記のとおりであり、かつ、本件退職手当規程についてそれに対応する改訂が行われていなかつたため、形の上では、退職手当の額の算定基準は存在しながらその適用の対象となるものが存在しない状態にあつたものというよりほかはない。

 

もとより、そのために、額の算定不能を理由に退職金請求権そのものが存在しなくなつたものとみることができないことはいうまでもないところであるから、右「本俸」を合理的に解釈して適切な額を算定することとするのが相当であるというべきところ、(中略)Y会社における賃金は、旧給与規程においては「本俸」と名付けられていたが、いわゆる総合決定給であるためにその決定基準が不明確であつたこと、そこで、新人事体系においてはこのような性格の「本俸」を廃止し、新給与規程において新たに職能給の制度を導入するとともに、賃金を生活保障の部分と職務遂行能力に応じた労働の対価に相当する部分とに分け、それを併せたものを「基本給」と名付けて賃金の決定基準の明確化を図ることとしたことが認められる。

 

そうであるとすれば、旧給与規程の上の「本俸」と新給与規程の上の「基本給」とは、その性質を異にするものといわざるをえないから、たとえ個々の場合においてその額が近似することがあるとしても、その旨の明文の定めがないのに、本件退職手当規程の定める退職手当算定の基準である「本俸」を新給与規程上の「基本給」と読み替えるのは相当でないといわざるをえない。

 

Xの退職当時においては、右退職手当規程上の「本俸」は、昭和53年度の本俸を意味するものとして現実に解釈され、かつ、そのように解釈するのを相当とするような客観的状況が存在していたものということができるので、そのような客観的状況を踏まえて考えれば、本件退職手当規程上の「本俸」は右の新給与規程の「基本給」ではなく、旧給与規程に基づく「昭和53年度の本俸」を意味していたと解するのが相当といわざるをえない(上告審の破棄判決の拘束力は、破棄の理由とした判断の範囲に限られるから、右のように判断したからといつて本件上告審判決の拘束力を破ることになるものでないことはいうまでもない)。

 

そうすると、前記黙示の合意は、就業規則である本件退職手当規程に定める基準に達しない労働条件を定める合意には当たらず、労働基準法93条によつて無効となるものではないというべきである。

 

もつとも、本件退職手当規程上の「本俸」を右のように解するならば、右の黙示の合意の成否にかかわらず、Xとしては、昭和53年度の本俸を基準とし算定した退職手当の支給を受けるにとどまるので、結果的には、右黙示の合意の成否及び効力について判断することを要しなかつたことになるけれども、いずれにせよ、Xにおいて新給与規程上の「基本給」を基準として算定した退職手当との差額を請求する権利を有しないことに変わりはないというべきである。